昭和五十六年五月七日 朝の御理解


御理解第二十七節「昔からあの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃと言う者でも、段々不幸が重なって世間ではどういうものであろうと言うような事があろうが。何程人に悪事をせぬ正直者でも人が善いのと神に信心しておかげを受けるのとは別物ぞ。」


 信心しておかげを受けるという事は、人が善いのと悪いのという事にはあんまりかかわりあいがないという事。そういえばどんな人でもお取り次ぎを頂けばおかげを頂いておりますわね。
 本当にあの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃというても段々難儀な事、不幸な事が起こるとどうしたことであろうかと、だから人が善いのと仏様のような人神様のような人というだけでは、天地の働きをうけるという事にはならない。何かそこに天地と交流する何物かがなからなきゃいけない。まあ場合には根性というようなものもありましょう。本当にこの人はどこまで底のない程直な人だろうかとでも言うでしょうね。
 兎に角教えに基づいてお取り次ぎの働きによって、そこから神様との交流が生まれてくる。そこからね、おかげが受けられる。そこでなら仏様のような人だから神様のような人じゃというのが信心させて頂くようになったら、こりゃいよいよ鬼に金棒だろうと思うですね。
 日々の改まりが第一、本心の玉を研くもの、とだから本心の玉を研くもの、日々の改まりが第一というような所に焦点を置いて信心させて頂きますと、どういう人でもお徳が受けられる。私はやっぱりお徳を受けるというのは、人間的にも段々素晴らしくなって、云うなら人間からも信用されるようになって、又は神様からも信用を受けるというようなおかげを頂いて、初めて神徳人徳というのが頂かれるようになると思うんです。だからここで、はあ改まらんでん信心すりゃおかげが頂ける、そんな感じのする御理解ですもんね。 人が善いのと信心しておかげを受けるのは別物とこうおっしゃっておる。確かに別物ですけれども、こりゃもう椛目の時代でしたけれどもね、大変盗癖のある子供をしばらく合楽に、いや当時の椛目に預かってくれという事でした。それであんた何に大体なるかち言うたら「金光様の先生になりたい」ち、その人は親が、両親が居なくて浮羽郡の大きな製材所のが伯父さん伯母さんになって、そこにから、そこで養われてあんまり、云わばその盗癖がありますので、金光様になっとん預けたならという事じゃったんでしょう。段々気のきいた子供でしたが、まだ子供でしたからもう本当によう気の付くよい子供で、それから段々信心を頂くようになって、まあ云うならば願いとするならば、金光様の先生にでもなろうかとまあ、或る事情で当時の椛目を、今どこでどうして居るかも分かりませんけれどもね。そういうような事を聞いて、そのお道の教師にでもなりたいといったような願いでも、神様にお取り次ぎをさせて頂いたらね、頂きます事がね、あの御用提灯ね。真暗い中に御用御用というてこうあの昔のね、あの取手の御用提灯が真暗い中から一杯そこを取手に来とるとじゃなくて、その人ん所に集まるという感じの御神眼を頂いた事があるです。 してみると泥棒根性があっても一度神様へ心を向けてというたら、その泥棒でもおかげが受けられるという事が分かるです。しかもこれがお道の教師になって過去に於いては、そういうような盗癖があったんだけれども、改まってお道の教師にでもなったなら、確かに世の中には沢山善人ばっかりじゃありません。悪人であれば悪人。兎に角あの病気を根限り病気そして教会をもって病人がそこの教会でどんどん助かるというたような事がこれは確かにそうなんでうよね。だからその先生が泥棒根性があるなら泥棒根性のある人達が集まって来るわけです。これもやっぱ天地の親神様の氏子ですからね。助からにゃならんのですから。私はそん時以来人間を本当にどうこう、この人はどげな癖があるからこんな癖があるから、女癖の悪い先生んところじゃね三角関係ごたるとが確かに助かるです。本当ですよ。だからもう確かに人間にはピンからキリまでだけども、そのピンらキリまでの人間氏子が助からんなん為には、なら仏様神様のような人ばっかりでは助かりようがない。勿論そういう本当にならまあここでは私が神様のような人、神様のような人という事になればです。本気で神様にもなりたい、生神金光大神とはここに神が生まれる事であってと仰せられるのだから、生神を目指すさまざまな難儀の中からさまざまな問題の中から合楽に縁を頂いたという人達はやっぱり私と同類項的な内容を持っている人達です。だからそういう人達が一度生神を目指すと生神の徳を受けられる。私がそうであるならばですよ。生神の徳も受けられるという事が分かりますですね。ここのは云うならば信心をするという事の信心の何ていうか、まあ兎に角、私達や悪い事はせんから神様仏様ち言わんでもというような事をいう人もあります。又正直であればよいというような意味の事を申しますけれども、信心しておかげを受けるという事にはならない。信心しておかげを受けるというのは、例えば今申しますようなさまざまな、まあ悪い癖やら持っておる人でも助かる事が出来る、いやそういう人達がお道の教師でも志せば、だからピンからキリまでお道の教師にはあってもいいという事になるですね。そこにはそういう同類項がやはり助かる事になるのですから。だから、もちっとましな御信者がほしいと、例えば思うならばこっちが高められばよいという事になるわけです。
 ここでは私と皆さんがやっぱりこれは竹内先生が初めて、初めてじゃない椛目に御神縁を頂いてお参りされるようになって、あちらはその当時熊本の何か偉い役をなさっておられましたが、もう人格も見ただけで、はあ立派な人格だなあと思われる。けどもそん時何か一杯御神酒を差し上げる事がある時に言うた事でしたけれども、ああたがどげん立派であっても私と同じような内容ば持っとんなさるですよというて、まあお話しをした事がございまいたがね。
 竹内先生と言えば、昨日御夫婦で東京へお出られました。天皇陛下の今度八十歳のそれをお祝いして東京であれは園遊会が催されるのです。それで私は何処の市長さんでもかと思うたら九州でもまあ何人か、兎に角全国から選りすぐられた、云うならば人格の者の方達が天皇陛下のそのお祝いの園遊会にね、招待を受けられて昨日発たれました。明日がたしかそうなんです。
 もう本当に伊万里の支部では朝参りが二十数名あるそうです。それがもう一人一人助かってるんです。毎朝ここの御理解を頂いてそしてその後に竹内先生を中心にして研修をする。おかげ頂いておる。これなんかはやはり竹内先生の一つのお徳だと思いますけれども、人が見てもやっぱり市長にでも祭り上げられなさる位ですから人格も素晴らしい。それにあのような行き届いた御信心をなさるから神徳人徳が兼ね備えられて、それこそ国のシンである天皇陛下のそういうお祝いでも招かれる程しのという事はただ事ではないというふうに思います。合楽教会の中でそういう方があるという事は、これは合楽にとっても名誉な事だと、私は思わせて頂いておりますけれども、だからお互いの人格を高めていくという事。ここには書いてありません。それはそれこそ馬鹿でもチョイでも、云うならばその不正直であったり、真面目でなかっても信心しておかげを受けるという事実はあるという事。けどもそれでよいという事ではなくて、やはり信心の眼目は本心の玉を研く事であり、日々の改まりでありますから、どういう自分に癖のあって、私は今日のような御理解でしたけど、頂きます事が夢の中にでもお取り払いを頂けると頂いたです。自分が改められない所はね、夢の中にでも改まっていくと、改まったとして受けて下さるそういう働きがあるようです。だから夢の中にでも云わば改まろうと思うけれども改まれぬというなら、夢の中ででも改まらして下さいというような願いが又いる事であり、勿論信心、本心の玉を研く事であり日々の改まりが第一というその手立てなんですね。
 だから実際に改まっていく、本気でその事を通して研いていくという生き方になって信心をさせて頂けばいよいよ鬼に金棒的な人徳神徳、云うならば兼ね備えるようなおかげをうけられるという事であります。 どうぞ。